1678年3月4日、イタリアのベネツィアにアントニオ・ルーチョ・ビバルディは生まれました。
生まれつき体が弱く、明日の命さえ危ぶまれていたので、生後2カ月たって
やっと教会の洗礼を受けました。
ベネツィアはアドリア海北岸の港湾都市で、小さな島々が運河で結ばれているところから
「水の都」と呼ばれ、ゴンドラレース等華やかな催し物があり、音楽も盛んでした。
父親はバイオリン製造で有名な町プレシアの出身で、理髪店を営む傍ら
バイオリン奏者として世間に知られていました。
ビバルディの家はアルセナーレという海軍造船所の裏手にありました。
当時のベネツィアは、ローマ教皇と対立し、スペインやオスマン帝国とも対立していました。
貴重なクレタ島も失い、地中海貿易が衰退し、国全体が衰退していました。
しかし一方、文化はさかえ、華やかな祭りや絵画・建築・音楽に対する情熱は
脈々と息づいていました。音楽は生活と密着していて、教会や劇場だけでなく
宗教的催し物や舞踏会・結婚式・葬式でも必要とされました。
よって、社会的身分の低いものでも才能や意欲があれば
高く評価されました。
父親は非凡な腕を持つバイオリンの名手として次第に認められるようになり、
理髪業をやめ、サン・マルコ大聖堂のバイオリン奏者として家計を支えるように
なります。
ビバルディは6人兄弟の長男で、幼いころから父親にバイオリンの手ほどきを受けました。
音楽的才能を父親は見抜き、やがてサン・マルコ大聖堂の一流奏者たちを
教師に選んでビバルディの音楽教育を施すようになりました。
ビバルディは抜群の理解力を示し、高い技術を習得します。
そして、13歳ころには父親の代役を務めるまでになりました。
ビバルディは音楽のレッスンを受けるために、サン・マルコ大聖堂まで歩いて通いました。
町の風景や音・活気や雰囲気・運河のきらめき・通行人の歌声等
ベネツィアは、とても魅力的なところでした。
大運河の両側には貴族の宮殿や豪邸が並び、教会は高く厳かに聳え立っていました。
教会の中には素晴らしい絵画が飾られていました。
そうした様々なベネツィアの特色をビバルディは吸収し、育っていきました。
当時は聖職者になることが出世の早道でした。父親はビバルディを聖職者にすることが
良いと考え、ビバルディが15歳になると剃髪式を受けさせ、司祭への道を進ませました。
各教会は音楽づくりの中心としてその出来栄えを競っていたため、音楽家から
遠ざかることはありませんでした。
ビバルディは司祭になるための修業に10年を費やしました。
病弱だったため特別に自宅から通いました。
司祭の修業のかたわら、もっぱらバイオリンと作曲に没頭していたようです。
そして1703年、はれて司祭に任命され、正式に職務に就くことになります。
髪の色から、赤毛の司祭と呼ばれていました。
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