1811年10月22日、オーストリア領内 ハンガリー王国のライディングで フランツ・リストは
生まれました。当時のヨーロッパはフランス革命の後で、戦争にあけくれていました。
お父さんのアダム・リストはオーストリア系ハンガリー人で、ハンガリーの貴族エステルハージ家に仕え、
牧場と農地の管理人をしていました。お母さんのアンナ・ラーゲルは、オーストリア人で商人の娘でした。
当時のハンガリーはオーストリアの勢力が強く、両親ともにゲルマン系の家系であったため
ドイツ語で育ちました。
両親とも音楽好きで、ドイツの音楽を楽しんでいたようです。ライディングはいなか町でしたが、お父さんは
室内楽団をつくり、部屋にはベートーベンの肖像の石版画をかけ、スピネット・ピアノでドイツ音楽を
弾いていました。
ときどきジプシーがきて、舞踊と音楽で町中をわきたたせていきました。
リストは小さいころから、家族を通してドイツ音楽にふれながら、ジプシー音楽も聴いて育ったわけです。
さて、お父さんは自分の弾くピアノを いつもじーっとして聴いているリストが、弾いた曲を完全に覚えて
正確に歌っているのをみて、リストの音楽的才能に気付きました。6歳になって、お父さんはリストにピアノを
教え始めます。リストの天才を見抜いたお父さんは熱中して教えるようになり、リストも飽きることなく
集中してピアノのレッスンに打ち込んだあげく、リストは病気になってしまいます。
一人息子で、生まれたてから病弱であったため、回復した後もしばらくはピアノを弾くことを禁止しました。
その間、よく読書したようです。好んで読んだのは、つくられた話よりも実際にあった歴史物語や伝記・戦記、
そして聖書の物語だったようです。
元気になって、ようやくピアノを自由に弾くようになると、その音色に町の人たちがひかれ、評判が高くなり、
リスト9歳のときに お父さんの奔走で演奏会が開かれるようになります。その成功で、エステルはージ公爵を
はじめ、ハンガリーの貴族たちの力で、もっと高い音楽の勉強をするためのお金が支給されることになりました。
そこで、お父さんは はじめにフンメルのところへ行って頼みますが、高い謝礼金を要求されたせいでしょうか
・・・あきらめて、ウィーンに生き、チェルニーに弟子入りします。チェルニーは、リストからは謝礼も受け取らず
ピアノを教えたといわれています。さらに、音楽理論、スコアの読み方等の先生としてサリエリを紹介したそうです。
修業を積んだ11歳のリストは演奏会に出演しました。このころ、ベートーベンを尊敬する心が激しく、紹介で
ベートーベンに会いに行きますが、演奏は聴いてもらえません。2回目の演奏会はチェルニーの骨折りで
やっとベートーベンに演奏が聴いてもらえた上に、その舞台でベートーベンに抱擁されて褒められたのです。
この大成功の後、お父さんが計画をねり、母国ハンガリーでも演奏会をひらき大成功をおさめます。
ここでお父さんは、息子にもっと音楽の勉強をさせるために、パリ音楽院へ進学させることを考えます。
そのために、自分はエステルハージ家に仕えるのをやめ、財産を処分し、一家でリストに全力を注ぎます。
ウィーンからパリへ向かう途中 ミュンヘン・シュツットガルト等で演奏会を開き成功を積み重ね、ピアノの
天才少年として、評判が高くなりました。
ところが、パリ音楽院では外国人であることを理由に 入学させてもらえませんでした。そこで、パエールと
ライヒャに師事して勉強するかたわら、紹介状をたよりにサロン演奏会を重ねて生計をたてました。
ピアノ製造発明家のエラールとの出会いもあり、次の目標をイギリスのロンドンにして、準備が始まったころ
お母さんは旅行続きのはての外国暮らしに疲れ果てて、姉のもとへ休養に行くことになりました。
練習・勉強・サロン演奏の忙しさの中で、気持がゆったりできるのは、毎朝教会のミサに出席するわずかな
時間だけでした。
イギリスでのデビュー演奏会も成功し、パリにもどって歌劇「ドン・サンシュ」を13歳の終わりに書きあげました。
14歳になって多忙な生活の中で一時は聖職者になりたいと願い、宗教書を読みふけっていたようです。
15歳になっても演奏旅行、ピアノ練習曲の出版と多忙な生活が続く中、ついに疲労で倒れて、休養をとります。
リストの健康は回復したものの、お父さんが病気で亡くなってしまいます。
16歳にして、父の借金を背負い、2年ほど離れて暮らしていた母親をパリに呼び、生計をたてるために
ピアノ教授を始めるようになるのでした。
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