ラフマニノフは、1873年3月20日にロシアのイリメニ湖南セミュノフにある屋敷で生まれました。
ここノブゴロドは、古代ロシアの声楽術の伝統を受け継ぎ、伝えた地域です。
父ワシリーは、400年以上の歴史を誇る旧家の貴族でした。彼の先祖がラフマニン(愛想のよい客好きな
人)とあだ名がつけられ、それが一族の苗字となりました。ラフマニノフ一族は、音楽の才能で名声を
博していました。
そして父ワシリーは、ピアノの腕前がすばらしく、作曲もしました。彼は軍役に就き、参謀づき軽騎兵大尉と
して退役した後、妻のリュボピ・ペトロプナとノブゴロド県に移り住みます。
ラフマニノフには2人の兄弟と3人の姉妹がいました。移り住んだオネグの家は、リンゴ果樹園の緑に
包まれ、近くには庭園や川が広がり、少年時代を過ごすにはうってつけの のびのびとした穏やかな環境
でした。
父は善良で子供好きでしたが 浪費家で、家には大勢の客が絶えずもてなされ、豪勢な生活をしていた
ようです。
母方の祖父は、ノブゴロド陸軍幼年学校の校長で歴史の教授で、祖母のソヒヤは古い民俗音楽をよく
知っていて その分野で絶対的な権威がある人物とみなされていました。
その子、つまりラフマニノフの母は、ピアノが上手だったようです。
ラフマニノフは、隅に隠れて演奏を聴くのが大好きでした。その音楽に対する興味はじきに目につくように
なりました。祖母が歌う聖歌を耳で聞いて暗譜したり、祖父と一緒に連弾をしたり・・・周りも次第に
ラフマニノフの並はずれた音楽の才能に気付くようになります。
両親の性格は極端に違い、生活・子供達に対する考え方も違っていました。
まもなく父の浪費で ついに破産し、領地を失い、一家はペテルブルグの小さなアパートに引っ越します。
子供達はジフテリアにかかり、妹は亡くなってしまいます。
両親の仲は険悪になり、破局となります・・・。一家の崩壊は、感受性の強いラフマニノフに 重い悲しみと
なって、のしかかるのでした。
教育方針も変わり、お金のかかる貴族幼年学校はやめることになり、兄は陸軍幼年学校に転校し
ラフマニノフは、ペテルブルグ音楽院の初等科に入ります。
ここでは、さぼっていてもその才能ゆえに良い成績をとれたので、ラフマニノフはすっかり怠けるように
なってしまいます。母親が従兄弟のジロチに相談し、才能を伸ばすためにモスクワ音楽院に転校させます。
モスクワ音楽院では、有名なピアノ教師ズベレフの内弟子となり、住居も共にしました。
ズベレフは怠惰を許さず、練習を絶えずしっかりやること、義務感・責任感を培わせ、ラフマニノフの
一般的な教養と音楽の見識を広くしました。ピアニストとしてのしっかりとした基礎も与え、驚くべき才能が
花開く基を築きました。
やがて、ラフマニノフは音楽院の優秀生徒の一人となり、奨学金をもらうようになります。
幼年時代から即興演奏が好きでしたが、高等部で作曲に熱中するようになります。
ズベレフのもとで、ラフマニノフは著しく才能を磨いていきます・・・。
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