ドボルザーク
ドボルザーク

ドボルザークの幼少期へ ようこそ

音楽とピアノの広場ドボルザークの幼少期

           


ドボルザークの幼少期


   このページは、勤勉なドボルザークの幼少期について
   簡単に御紹介させていただきます。

 

 1841年9月8日、アントニーン・ドボルザークはチェコのボヘミア地方ネラホゼペス村に生まれました。
首都プラハからはなれたプルタパ川沿いにあり、ドイツ語でミュールハウゼンと呼ばれていた所です。

 当時のチェコはドイツ系の貴族に支配されていたため、政治・経済・宗教・言語の自由が
奪われていて、公用語としてドイツ語を使っていました。ドボルザークが生まれたころは
チェコ独立運動が盛んになってきた激動の時代でした。

 両親は、村で肉屋と宿屋を兼業していました。祖父が始めた家業で、2人の伯父も
別の町で同業を営んでいました。宿屋は近くの炭鉱で働く炭坑夫や農民でにぎわい
父親は音楽好きで、すぐれたアマチュア音楽家として知られていました。

 当時チェコを支配したドイツ系の貴族は、自分たちの城や館で演奏させるために
チェコの農民に音楽を学ばせ、積極的な器楽教育も行っていたので、それはチェコの
農村に音楽的下地を作る結果につながったようです。

 父親は、ヴァイオリンやツィターを弾くことができたので、ドボルザークは幼いころより
その音色を聴いて育ちました。
 小学校に入る前からヴァイオリンの弾き方を覚え、時には宿屋の客の前で
弾かせてもらうこともあったようです。

 6歳で小学校に入学すると、勉強とともにヴァイオリンのレッスンも受けました。
教師のシュピッツ先生は、勉強だけでなく楽器を弾きこなす音楽家でもあり、村の教会の
ミサでは、パイプオルガンの奏者としても有名でした。

 ドボルザークは教会の聖歌隊にも入り、祝い事があれば 父と一緒に
楽団のメンバーとして、演奏するようにもなりました。
チェコの民族衣装に身を包み、村の素朴な伝統やダンス・音楽を吸収していきました。

 少年時代、ドボルザークは熱心なカトリック教会の信者だったようです。
教会のミサでの聖歌隊やオーケストラの演奏は、貴重な経験となりました。

 また、蒸気機関にも夢中になりました。
1845年〜1850年にプラハからボヘミアまで鉄道が敷かれ、ネラホゼペスにも
駅ができました。
9歳のころ鉄道が開通し蒸気機関車のとりこになったようです。

 ドボルザークは、少年時代 音楽の才能でもてはやされるほど 目立っては
いなかったようです。

 シュピッツ先生だけは秘められた才能を見抜き、父親に ドボルザークを
音楽の道に進ませるように 話しました。

 しかし、長男であるドボルザークに家業を継がせるため、父親はその申し出を
断わります。ドボルザーク家は、典型的な「貧乏人の子だくさん」の一家で
長男に音楽の勉強を続けさせるゆとりなど、ありませんでした。

 小学校を卒業すると、ドボルザークは父の店を手伝いながら、肉屋になるための
修業を続けました。 

 13歳になる前にズデニェックという母方の叔父の家で、住み込みで本格的に
肉職人の修業をすることになり、家族と離れてズロニチェの町で暮らします。
 この叔父は、ズロニチェの領主キンスキー公爵邸の事務所で支配人を
務めていました。叔父さんは面倒見がよく、ドボルザークが音楽のレッスンも
続けられるように レッスン代の一部も負担してくれました。

 そこで、ドボルザークはリーマン先生という名教師に音楽のレッスンを
受けられるようになります。リーマンは、即興の名手として名高いオルガン奏者で
作曲科・指揮者としても有名でした。リーマンは、ピアノ・ビオラ・オルガンの演奏法
音楽理論の基礎・ドイツ語を教え、熱心な指導のもと、ドボルザークの腕は
ぐんぐん上達し、リーマン指揮のオーケストラに参加して、キンスキー公爵の館で
開かれるコンサートにも出演するようになります。

 リーマン先生は昔かたぎの厳しいレッスンでしたが、その徹底した音楽教育に
ドボルザークは感謝の念をいだいていたようです。

 1855年、一家は村の宿屋を引き払い、「大きな居酒屋」という名の宿屋の
経営権を手に入れ、ズロニチェの町に引っ越してきます。

 ドボルザークは2年間の肉職人としての奉公を終え、1856年に町の
精肉業組合から技術習得証書を授与され、肉職人として営業することを
許可されます。(15歳)

 父親は、ドボルザークと力を合わせて家業を繁盛させることを期待していました。

 しかし、リーマン先生はドボルザークの才能を高く評価し、音楽の勉強を
続けさせるよう、父親を説得します。

 父親が納得しなかったので、リーマン先生はドイツ語の勉強をもっと続けたらどうかと
説得しなおすと、そのすすめには同意したので、今度はチェスカー・カメニツという町で
ドイツ語学校に通うことになります。
 当時はドイツ語をマスターしなければ出世が望めない状況だったからでしょう。

 粉屋でホームステイしドイツ語学校に通うかたわら、リーマン先生の紹介で
教会のオルガン奏者フランツ・ハンケから、オルガンと音楽理論を学ぶようになります。

 リーマン先生と叔父の粘り強い説得の後、ついに父親はドボルザークが音楽の道へ
進むことを許可しました。

 16歳のドボルザークは、プラハで20歳年上のいとこの家からオルガン学校へ
通うようになります。ここで和声法・鍵盤楽器の演奏法・教会音楽の作曲の基礎を
中心に学びます。

 はじめは家から仕送りがありますが、父親の商売が傾き、仕送りがなくなってからは
楽団でのバイオリン・ビオラ演奏のアルバイトもするようになりました。

 お金には不自由しましたが、このころにワーグナーのオペラにふれたり、ベートーベン・
モーツヴァルト・シューベルト等の作品にふれることができ、新鮮な息吹を感じていきます。
 



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