1732年3月21日ハイドンは、オーストリアとハンガリーの国境を流れているライタ側のほとりのローラウ
という村で 12人兄弟の長男として生まれました。
父親は車大工で、若い頃諸国を巡り歩いて修業をしました。ハープの演奏も少し習ったようです。
母親はハルラッハ伯爵の料理女をしていていました。
両親が結婚して次々と子供を授かりましたが、そのうち6人は小さいときに亡くしました。
貧しい生活の中でも ふさぐことなく、父親は歌うことが大好きで、ハープで伴奏しながら
歌を歌っていたようです。ハイドンをはじめ家族もみんな歌が好きになり、家庭音楽会のようなことも
やっていたようです。
5歳ごろ、父が歌いだすとハイドンは木ぎれを拾ってきて、木切れを棒でこすり、バイオリンを
ひいているつもりでいたようです。それがちゃんと伴奏になっているということで、大人たちは
おもしろがり、語り草になったようです。
両親は長男のハイドンを僧職につけたかったようですが、近所の人たちがハイドンの歌をしきりに
ほめるので、遠い親せきのフランクという合唱指揮者に相談して、音楽をやらせようと決めました。
それで6歳のとき、故郷をはなれ、ハインブルクのフランク先生のもとで音楽の勉強を始めます。
フランク先生はまず、ティンパニーのたたき方を教えます。ハイドンは練習するために、
農家でパンを焼くときに使うかごをみつけ、布をはって椅子に置き、一生懸命たたいて練習しました。
しかし、かごについていた粉がたたきだされて椅子が粉だらけになり、怒られましたが、練習のために
やっていたことがわかり、うまくなっているのがわかると、先生はほめてくれました。
ウィーン宮廷の学長ロイター先生が旅の途中に、美声と才能を備えた少年をさがすために
ハインブルクに滞在しました。フランク先生がハイドンのことを紹介し、ロイター先生がむずかしいトリルを
歌わせると、いとも簡単にできたので、感激して銀貨をあげたということです。
ロイター先生は父親に、まだ小さすぎるので8歳になったら面倒をみることを約束し、それまで
音階の練習をみっちりするようにと言い残していきました。
ハインブルクには、イタリア式ドレミ唄法を知る人がいなかったので、ハイドンは音名を唱えながら
毎日歌って練習していたようです。
1740年、8歳になるとウィーンに行き、聖シュテファン大聖堂の少年合唱隊員として働きました。
合唱隊員は手当をもらい、ヴァイオリンやチェンバロの演奏等を習いましたが、教育をしっかり
受けたわけではありませんでした。
やがて弟も合唱隊員に加わり、ハイドンはここで声変わりするまでの9年間 働くことになります。
好奇心旺盛で、いたずらでかなり怒られたこともあるようです。
しかし、声変わりで合唱団を解雇され、1749年より友人の家の屋根裏部屋に住み、フリーの
音楽家として生きていくことになります。当初は食事にも困るようなみじめな生活が続きますが、
成功している音楽家たちをみながら、自分に足りない部分を補う勉強を続け、作曲もしていきました。
ダンスホールのための音楽もかいて、評判にもなっていきます。
そして、オペラ作曲家として有名なポルポラ先生の助手に雇われて、生活も安定し、多くを
学ぶようになります。
ウィーンの宮廷詩人メタスタージオと知り合い、イタリア語も覚えます。
製造業の一家とも親しくなり、冬はそこの一室を使わせてもらえるようにもなります。
そこの奥さんが生活に困るようになると、月々仕送りをし、30年間も送り続けたということです・・・。
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