ヘンデル
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音楽とピアノの広場ヘンデルの幼少期

           

ヘンデルの幼少期


    このページは、ヘンデルの幼少期について
   簡単に御紹介させていただきます。

  ハンブルク

 1685年2月23日、ドイツのハレの町に ゲオルグ・フリートリヒ・ヘンデルは生まれました。
ハレは、ザーレ川の岸辺に沿った、千年の歴史を誇る中世都市でした。
 しかし、当時は30年戦争で荒れ果てたあとで、戦後40年たとうとしていました。

 父は外科医で、ヘンデルが生まれたとき63歳でした。最初の妻は医術を学んだ師の娘で
6人生んで、4人亡くしています。
 後妻のドロテアがヘンデルの母で、高名な牧師の娘でした。信仰の深いクリスチャンで、
父とは30歳の年の差がありました。

 父は、生まれたときからずっと、ヘンデルを法律家にさせるつもりでいました。
法律家は当時、名誉ある職業として尊ばれていて、収入もよく、安定した生活をのぞめたからです。

 ヘンデルは、異母兄弟がチェンバロを弾いたり たて笛を吹いたりするのを見て育ち、
楽器をいじるのが大好きでした。妹が生まれると子守唄を歌ってあげたり・・・音楽に
ひたっているのを好みました。そんなヘンデルに、父親は幼いころから音楽にひたるよりも
勉強に目を向けるように 仕向けるのでした。

 学校に通いだしたある日のこと。
ヘンデルが音楽に傾倒するのを懸念し、父親は家中の楽器すべてを屋根裏部屋に隠してしまいます。
ヘンデルは夜眠れず、屋根裏部屋までチェンバロを捜しに行き、みつけると思わず弾いてしまいます。
両親が気付いてみつけ、父親は非常に怒り、ついにチェンバロを家から無くしてしまいます。

 ヘンデルの音楽熱は消すことができません。友人のシュミットの家でしょっちゅうチェンバロを
弾かせてもらうようになります。

 7歳になると、公爵の侍医として毎日宮廷に出仕している父に 宮廷に連れて行ってくれるように
頼みます。毎朝やる礼拝で、オルガン伴奏の讃美歌を聴くのが目的です。
礼拝に参加してオルガンをみると、がまんできず、礼拝が終わると、聖歌隊の席にもぐりこみ、
思わずオルガンを弾いてしまいます。

 聴いていた公爵に呼び出され、父子ともに怒られると思っていましたが、
意外にも公爵はヘンデルの才能を褒め、父親にむかって ヘンデルに音楽をやらせることを
勧めてくれます。

 9歳になると、聖母マリア教会オルガニストのツァハウ先生の門下に入ることを許されます。
この先生のもとで熱心な指導を受け、音楽の基礎をたたきこまれます。オルガン・チェンバロ・
ヴァイオリンの正しい弾き方を教わり、作曲もするようになります。
 きびしい父の方針から、一般の勉強も 少しも怠けることはできませんでした。

 11〜12歳ごろ、ツァハウ先生の誘いで、フリードリヒ1世陛下の催される音楽会に行くために
ベルリンへ馬車旅行をします。陛下の前でヘンデルはチェンバロを弾き、陛下に褒められます。
そして、陛下にイタリア留学を勧められるのですが、それについてはツァハウが断わります。

 1713年に新たに王になったウィルヘルム一世は、財政上の理由で宮廷音楽の予算を全部
なくし、宮廷音楽家は解雇されます。

 音楽家の地位のはかなさを感じつつ、父が法律家を勧める気持ちがわかるようになりますが、
やはりヘンデルの音楽熱は変わりません。

 ところが、まもなく74歳になった父が、病床に伏してしまいます。
ヘンデルに法律家になってほしいと言い残して亡くなります。

 父の願いに従って、17歳でハレ大学の法学部に入学します。
音楽への情熱を止められず、悶々とした日々を過ごすのでした。

 同じころ、5歳年上のテレマンも家族の同意を得られず、ライプチヒ大学で法律を学んでいました。
テレマンもツァハウ先生の門下生で、大学に行く途中、ハレに立ち寄ってヘンデルに会いに
きました。お互いの評判を聞き合っていたので、境遇も同じで意気投合し、その後
生涯を通じて助け合い、尊敬しあう関係となります。

 やがて、法律家となるのをやめて、音楽に打ち込むことを決心します。母と父の墓前で祈り、
立派な音楽家になることを決意するのでした。

 1702年、1年間の見習いという条件で、ハレの大聖堂オルガニストの仕事が与えられます。
ここで1年間まじめに仕事にとりくんで終わるころ、もっと広く音楽を学びたくなり、
ハンブルクに出る決意をします。

 ハンブルクでは仕事のあてなどなかったわけですが、マテゾンという作曲活動もしていた歌手
の友達が、イギリス大使の息子の家庭教師をする仕事を紹介してくれます。 
そのうち、ハンブルク・オペラ劇場のヴァイオリニストの職が決まり、生活にゆとりが出てきて
家族への送金もできるようになります。

 ハンブルクは30年戦争の被害もなく、音楽のレベルの高い自由都市でした。
ここでヘンデルは、作曲活動に専念していき、オペラも書いていきます・・・。
 


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